大伴家持の代表作
万葉集に詠まれている大伴家持の歌は長歌・短歌合わせて473首。全体の1/10を占めています。16歳の時に詠んだとされる初々しい歌から、万葉集の最後を飾る歌まで年齢、自身の立場、周囲の状況などによって歌の内容が変ってきている事がわかります
年代順
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振り仰(さ)けて 若月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも空をふり仰ぎ三日月を見ると、一目見ただけのあの方の眉が思い出される
家持が16歳の時に作ったとされている歌。従妹で後に正妻になる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った恋の歌です。恋する男子の歌ですね。
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雨晴れて 清く照りたるこの月夜(つくよ) また夜くたちて 雲な棚引き雨も晴れて清く照っているこの月夜にまた夜が更けってから雲が棚引くようなことのないように
家持の秋の歌四首の最初の歌です。736年、家持が19歳の時に詠まれたこの歌は製作年がわかっている最初の歌です。雨が上がった後の清々しい気持ちが、清く照っている月によって一層かきたてられたのではないかと想像できますね。また、せっかく晴れた月夜が再び曇ってしまわないようにと願う気持ちも伝わってきませんか?
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今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長き夜(よ)を寝むこれからは秋風が寒く吹くのだろうに、どんな風にしてひとりで長い夜を寝たらよいでしょうか
亡くなった恋人を偲んで、739年、家持が22歳の時に詠んだ歌です。
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春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに うぐいす鳴くも春の野に霞のたなびく様が物悲しく思われる。夕暮れの光の中、鶯が鳴いている。
越中から都に戻った家持は、753年36歳のときに「春愁三首」といわれる歌を詠みました。長い冬から春が明ける事は本来喜ぶべき事ですが、衰退期を迎えていた一族の憂いが込められているような歌になっています。
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磯城島の 大和の国に あきらけき 名に負ふ伴の 男こころつとめよ大和の国に知れ渡る(大伴の)名を負っている一族の者たちよ。心して務めを果たせ
756年、聖武上皇が崩じ、一族の大伴古慈斐が朝廷を誹謗したという理由で捕らえられるという事件が起きます。この歌は一族の危機に警鐘を鳴らす為に作られました。
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新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)新年を迎え、初春の今日に降る雪のよう、良い事も多く積もれよ
759年に家持の当時の赴任先である因幡国で詠まれた歌です。新年の門出を祝いながら皆さんに良い事が起こりますようにという内容のこの歌で万葉集の最後は飾られています。
歌のテーマ
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春の歌
春の苑 紅にほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ春の庭には紅く匂うように桃の花が咲いている。その木の下まで照り輝く道に出てたたずむ乙女よ桃の花の咲く美しい庭園に美しい少女の姿があったらとても絵になるだろうな。という想像を働かせた歌。
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卯の花とほととぎす
卯の花も いまだ咲かねば ほととぎす 佐保(さほ)の山辺(やまへ)に 来鳴き響す(きなきとよもす)卯の花もまだ咲いていないというのに、ほととぎすは佐保の山辺にやって来ては鳴き立てているほととぎすは卯の花が咲くと共にやって来ると言われており、季節としては初夏の訪れを意味します。万葉集のなかで、ホトトギスを詠った歌は155首あります。そのなかで、大伴家持の歌は64首もあります。思いがけない時期にほととぎすの渡来を知り、家持は喜んだのでしょう。
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秋の歌
秋の野に 咲ける秋萩(あきはぎ) 秋風に 靡(なび)ける上に 秋の露(つゆ)置けり秋の野に咲いている秋萩が、秋風になびいて、その上に秋の白露(しらつゆ)が置かれているよ萩の花の上の水滴がゆらゆらと浮いている様が目に浮かんできそうです。いつかは落ちて消えてしまう露に儚さを感じながらも清々しい情景が描写された日本人らしい歌だと思いませんか?
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防人の歌
今替る 新防人(にひさきもり)が 船出する 海原の上に 波なさきそね今からでかけていく新防人を、海原よ、波頭を立てないでやってくれ防人として東国から九州の赴任地へ出かける者はこれから待ち受ける困難にどんな心持で臨んだことでしょう。せめて赴任地までの航路くらいは波静かに向かって欲しいものだという家持の優しさが垣間見えます。
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地方行政官の責任感
この見ゆる 雲ほびこりて との曇り 雨も降らぬか 心足(こころだ)らひにこの雲が広がっていって、一面にかき曇って心行くまで雨が降ってくれないかなあ日照り続きで干ばつになると稲や作物が実らず国は飢饉となってしまいます。枯れかけた田畑を見て、雨乞いをした歌ですが、国守として国を守らなければならない家持の想いがこもっています。
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こんな冗談みたいな歌も
痩す痩すも 生ければあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るないくら痩せているからといっても、生きているだけで儲けもんだ。間違っても鰻を捕ろうと川に入って流されるなよこの歌は家持が痩せすぎの友人吉田石麻呂をからかって作った歌です。鰻は万葉の時代から精のつくものとして知られていたことがわかります。こんなふざけた歌もあったんですね!
越中で詠まれた歌
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撫子(なでしこ)が 花見る毎に をとめらが 笑まひのにほひ 思ほゆるかもなでしこの花を見る度、彼女の笑顔の美しさが思い出されてならない
越中の国守であった家持は単身赴任でした。この歌は都に残してきたは妻を思って、自分の家の庭になでしこの種を蒔き、遠く離れた妻を思っていたことでしょう。
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渋谿(しぶたに)の、崎(さき)の荒礒(ありそ)に、寄する波、いやしくしくに、いにしへ思ほゆ渋谿(しぶたに)の崎(さき)の荒磯に寄せ来る波のように、何度も何度も昔のことが思い起こされます
渋谿は富山県高岡市の雨晴海岸のあたりを指す地名です。当時から今に至るまで風光明媚な事で知られるこの地に押し寄せる波を見て都の事を懐かしんだのでしょうか?
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明日の日の 布勢の浦廻(うらみ)の 藤波(ふぢなみ)に けだし来鳴かず 散らしてむかも明日もしかしたら、布勢の浦辺の藤の花にほととぎすは来て鳴かず、むなしく散らしてしまうのではないだろうか
家持の時代には、現在の氷見市「十二町潟水郷公園」あたりは大きな湖で近くには円山が、遠くには二上山が見渡せる美しい場所だったらしく、家持はこの地を気に入って何度も訪ねたようです。
能登巡行で詠んだ歌
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之乎路(しおじ)から 直越(ただこ)え来れば 羽咋(はくい)の海(うみ) 朝凪(あさなぎ)したり 船梶(ふねかじ)もがも志乎路の山道を越えてくると、羽咋の海は朝なぎをしている。舟と梶(櫂)があればよいのに
748年、領内の出挙(領内の農民に貸し付けた稲に対する租税回収)の為に能登を巡行した家持は現在の氷見市から之乎路の山越えルートをとり、能登半島外浦の羽咋に出ました。
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鳥総(とぶさ)立て 船木伐(ふなきき)るといふ 能登の島山 今日見れば 木立(こだち)繁(しげ)しも幾代神(いくよかむ)びそ島総を立てて船材を伐採するという能登の島山よ。今日見ると木立が繁っていて幾多の年月を経て何と神々しいことか!
島総というのは木のこずえや、枝葉の茂った先の部分で、山神を祭るためにその株などにこれを立てたもの。森林資源に恵まれた能登半島は船材による造船業が盛んだった。家持は香嶋津(現在の七尾市)から船に乗り込み、能登の島山(能登島)を見ながら対岸の熊木(現在の七尾市中島地区)まで巡行した。
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妹(いも)に逢はず久しくなりぬ饒石(にぎ)川清き瀬ごとに水占(みなうら)はへてな〈都に置いてきた〉妻に合わなくなって随分と経つ。饒石川の清らかな流れに水占いをして妻の様子を尋ねてみよう
この時代の和歌で妹というのは妻や恋人のこと。旅先でふと奥さんを思い出している何だか可愛らしい歌ですね。ちなみに 饒石川は、現在の輪島市門前町琴ヶ浜に注いでいる仁岸川のことで、この歌の歌碑が建てられています。
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珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の湾(うら)に月照りにけり珠洲の海に朝早く舟を出し漕いで戻って来ると、長浜の浦に着く頃にはもう月が照っていた
能登巡行を終えた家持は最後の訪問地である珠洲から船で越中国府への帰途につきました。珠洲の海で見た月照りに、旅を終えた感傷と、ようやく国庁に戻れるうれしさが寄せられています。