大友家持の越中滞在と能登巡行
大友家持は746年(天平18年)国守として越中に赴任しました。29歳の時です。
国守は都から地方に派遣される行政官「国司」の長官ですから、今でいう県知事のような立場です。
越中に5年間滞在した家持は、その赴任中に約223首の歌を詠んでいます。
万葉集に収録されている家持の歌は万葉集全体の10%以上を占める473首を数えていますが、そのうちの半数近くが5年間の越中滞在で詠まれています。
都で前途洋々だった若いエリート官僚が地方行政のトップとして赴任をしてきて、新しい土地での仕事に対する意欲や都への想いなどもあったでしょうが、背後に万年雪を冠する立山連峰を配し、眼前に美しい富山湾の海が広がる越中の景色に魅了されたのも創作意欲の源泉だったことでしょう。
赴任中の748年(天平20年)に家持は能登の巡行に出ました。
能登は元々独立した国(律令体制下での)でしたが、当時は一時越中に併合されていたため、越中国主である家持の能登巡行は領内の視察と租税の査察を兼ねたものだったと言われています。