越中と能登について

大友家持が赴任した越中と、滞在中に巡行した能登についておさらいをしてみましょう。
大化の改新で律令制が布かれると日本の各地域は律令国という行政区分に分かれました。令制国が成立する以前は、土着した豪族が世襲して務める国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)がありました。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める事になりました。つまり、それまでは各地域で力を持っていた豪族がそれぞれ治めていた領土を「土地と人民は王の支配に服属する」という中国の律令制を取り入れて中央集権的な国家へと変わっていきました。
万葉集の時代はまさに律令体制の時代です。
越中国、能登国はそれぞれ律令体制化に北陸地方にあった律令国です。

越中国

現在の富山県がこれに当たります。
今の県庁所在地は富山市ですが、当時国府が置かれたのは現在の高岡市になります。
国の南西は高い山に囲まれ、特に西側は立山連峰がそびえたち、山の向こうは信濃国(長野県)、海沿いを西に進むと越後国(新潟県)に隣接します。
北側は世界で最も美しい湾の一つにも数えられる富山湾、この風光明媚な景観は大友家持が愛してたくさんの歌を残しました。
南側は飛騨国(岐阜県)東側は能登国、加賀国(共に今の石川県)に隣接します。

能登国

現在の石川県北部にあたります。
741年(天平13年)には一旦越中国に併合されましたが、757年(天平宝字元年)には再び独立しました。
大友家持が越中国に滞在していた期間は越中に併合されていた期間です。
国府は現在の七尾市に置かれました。家持が万葉集で詠んだ「香島津」「熊来」はどちらも現在の七尾市にあります。
能登国は日本海に突き出た能登半島にあり、外浦と呼ばれる西側の海は波が高く荒々しい海、富山湾につながる東側の海は内浦と呼ばれ、比較的穏やかな海です。
能登半島には古くからの伝統文化が今も継承されており、地名も万葉の時代と変わらない場所がいくつもあります。

越中国府が置かれた高岡市は大友家持が滞在していたこともあり、家持ゆかりの地がいくつも残されています。